なぐすなぢゃ!守れ!大間函館航路

地域生活応援誌:JUNTOS(フントス)リレ-連載

@JUNTOS:48号掲載@

「あおぞら組」組員への道

サポーターから組員へ

 「私の青空」が放送されている時,私は大学の学生寮の三人部屋で生活をしていました。そのときは,一年生はテレビを持ってはいけない決まりがあり,そのため部屋では一学年上の先輩が見ているテレビをみながら社会の情報を得ていました。その為「私の青空」の事を知ったのは,友達からのメールでした。その時は,「なんで大間が舞台になったんだ。」と思っていました。寮では,入寮した時に各先輩の部屋に行き自己紹介をしなければいけませんでした。その時に出身の住所を言ったときに,先輩から「青森のどこだ?」と聞かれましが,説明するにも私自身が大間町の知識が無く本州最北端の町ですとしか説明できませんでした。
  夏ぐらいになると数人の先輩から,「もしかしておまえの出身地,NHKのテレビ小説にでている所か。」ということを言われることが多くなっていました。そして,その冬になると大間町のマグロがテレビに多く放送されるようになり,ますます大間町の認知度があがり「私の青空」の力がすごいと感じました。しかし,まだその時は,あおぞら組の存在を知りませんでした。

はじめての旗ふり
はじめての旗ふり

  その後,無事に大学を卒業し地元の大間町で働くようになりました。その職場にいた先輩があおぞら組の竜太さんでした,ある日,旗振りに行くと聞き,軽い気持ちで見物に行きました。ところが,見物をしようとしたら旗を渡され旗振りをすることになっていました。その時に多くの組員に初めて出会いこの人たちは何者でなんてパワフルな人たちだと感じたのを憶えています。初めての旗振りは,フェリーから下りてくる人たちに恥ずかしそうに「よぐきたの~」と言いながら旗を振っていましたが。いろんな人たちから笑顔で手を振ってもらいうれしくなって段々と声を大きくなり恥ずかしさを忘れて旗を振っていました。マグロ一筋テーシャッツを知ったのもその時でした。そしてその夏,アテネオリンピックで大フィーバーになりました。テレビで購入する為の行列を見たときは,すごいと思いました。
  ある日テーシャツのロングテーシャツを見つけたときに,組員に確認したらそのシャツは偽者だということが分かったときがありました。インターネットでも「○○一筋」というシャツも出回るようになっていました。あおぞら組では,それに対応して商標登録をしていました。
旗振りやゾーショッカ活動を少しずつ手伝っていく内に組員のサポーターになっていました。
  甲子園でハンカチ王子が,全国で注目されている年に,風間浦村の下風呂のある宿でフンドシ王子が誕生しました。マグぬい(マグロ一筋の手ぬぐい)で作られたフンドシを着用し宴会で披露したのが初舞台になりました。私がモデルとしてフンドシを着用しました。イベントに参加している人たちから拍手をもらったときは快感でした。そのときは,サポーターから準組員に昇格しました。
  勤務する職場が変わって旗振りなどの活動に参加することが少なくなってしまい,どうにかしなければいけないと思いテーシャツをきてアピールすることにしました。国民体育大会などの大会で積極的に着ました。
  今年は,準組員から正組員に昇格させてもらい。ますますがんばらなければいけないと思いました。小さいときから私自身生活している町について愛着はありませんでした。しかし,あおぞら組の活動を通して愛着がでて,この町をもっと良くしたいと思うようになりました。初めてサポーターから組員になった者としてこれからは,このような活動に参加して町を一緒に盛り上げていける人を増やしていくことに熱中しています。

秋田国体で
秋田国体でマグロ一筋テーシャッツ仲間とのツーショット